turezurenarupapaの日記

女もすなるブログというものを男もしてみむとするなり。下ネタを理論的に説明することが目標です(笑)

所得税の社会的意義

「税は、国家にとって好ましからざることに課税する。」の原則に照らして所得税とは。

一般に所得税は所得の格差の再分配により国民の間の所得の平準化・公平化する機能を持つ、との説明が一般的である。然るに税とは「税は、国家にとって好ましからざることに課税する。」の原則を維持されているというべきであり、その観点からすると、高額の所得を罰している様にみえる。高額の所得自体は、当人の社会からの好評価の表れであるということもでき、(不法な所得は論外として)罰するというよりはむしろ称賛されるべきものではある。

ところが一方で国家において、社会の血液として循環流通する貨幣が一部の者に集中しかつそのまま滞留す(蓄財され)ることは全体の経済の循環を滞留させる原因となりえるものであり、経済の滞留は国家経済の衰亡にもかかわる。よって、その原因となりうべき高額(通常に人間的生活を送るにあまるほどの)の所得を稼ぐものは、その滞留を促進させうるものとして好ましからざる行いであるといえることになる。つまり「大きな滞留の原因を抑止せん」とするのが所得税の目的であるということが言えるのである。さらに税率を所得額に応じて累進させることは、特に高額な所得部分はそのまま滞留の可能性が高まることが推測できることから、妥当・合理的な制度と言える。


しかしながら、そもそも好ましからざるは、高額の所得それ自体ではなく「高額の滞留金」であるということである。つまり当該所得のうちより他人の所得となるべく支出したものは、当人の所得ではあるが同時に社会にとっての収入となるものであり、これには課税されるいわれはないことになるのであり、これを罰する、つまり課税すべきものというべきではないであろう。

つまり、所得を生むに影響したか否か(いわゆる経費か否か)を問わず、他人の収入となるところの支出金(当然食費なども含まれる)については全額これを控除した残高に対してのみ所得課税すべき、とのポリシーに改めるべきである。よってその名称もむしろ「所得滞留税」とでも変更すべきものであろう。

議員を抽選制にせよ

日経新聞に珍しく良い社説が載った。民主主義がうまく機能してない、との危機感を訴えるベルギーの学者が書いた「選挙制を疑う」という本の邦訳が発売されたとのこと。そこに民主主義を立て直す方法として選挙制度をやめて、くじ引き制を提唱しているらしい。これはとても良いアイデアである。

そもそも、選挙に出たい人が政治を運営する能力があるとは限らないし、逆に国家をわがものとしてしまう傾向を持つ人がそのようになっている可能性も否定できない。むしろ、そう出ない人の中にも十分国政を任せられる高度な人材が多くいる可能性すらある。

罪と罰、功と賛

ある人が犯罪者になってしまった場合そればその人のせいなのか?善人でいることには一定のエネルギーが必要だが、それを持ち合わせていない、という運命に出会ってしまった人は罰せられるべきか?逆に、あることに努力する才能を授けられて一世を風靡する人が実績を上げると称賛されるが、その人は単に、ある特定のことに集中して努力できる才能をもち、実際のその特定の事象(例えば野球)に出会うことができたに過ぎず、それは果たして称賛されるべきものなのか?

「罪を憎んで人を憎まず」というが、裏を返して「成果を好んで人を称えず」の精神が実は必要・正しかったりするのではないか。

宗教は人類最古の詐欺だと思っている

基本的には、宗教は人類最古の詐欺だと思っている。ありもしないものをあるかのように言う人を信じてはだめである、という女王の教室のセリフを至極もっともな教訓としてあがめて来た。
然るに、なぜ世界の人々はこれほどまでに神を信じることができるのか。実は何か効用があるに違いない、との結論に至る。
それはありもしないはずの、見たこともないはずの神に念じること、そして神様が願いをかなえてくれると信じる、まさにそのことによって、自分自身に暗示をかけているのだ、ということである!
自己暗示の力は最近だと「引き寄せの法則」とか、思考は現実化する、とか様々に言いかえられていて、実際に効力があるようである。神頼みという行為もまさしく自己の願望を実現させるという観点、心理学的見地においては、実は至極合理的な方法なのではないか!!

とても特別な世代

最近妻から提起された、2045年問の予測するところは真実か否かについての考察を通して、我々の世代は、ある意味とても特殊な世代である、ということに気付いた。

仮に2045年問題が真実だとすると、そのころに80歳となる我々はその目撃者になりうるもっとも古い世代であるということになる。我々の世代が生まれたころはまだ今日のコンピュータといえるものがこの世に生まれたばかりで、真空管からやっとトランジスタを経てICにかわりつつあった時代だったのである。しかもそのころの日本の生活はまだ原始時代と基本的にはさほど変わらない暮らしを送っていたのだ。小生は肥溜めから畑に肥料をまく仕事を父親に手伝わされたのを鮮明に覚えている。
その後のコンピュータ目覚ましい発展を我々の世代は自身の成長とともに見てきた、ということがいえるだろう。そして、コンピュータが人類を超える瞬間の見届け人となるのだ!果たしてそれは人類の究極の発展かはたまた破滅なのか。。。

マトリックスの住人

映画マトリックスでは、人類は培養液に浸けられ、視覚も聴覚も奪われた状態に置かれて単にエネルギーの生産機械として生かされている。そしてケーブルで擬似感覚器官から送られて来る情報を真実であると信じ込まされている。

そしてこれは我々の脳が置かれている環境に酷似している。脳は脳脊髄液に浸けられ、脳それ自体は感覚器官を持ち合わせず、神経というケーブルで外界に繋がれている。自分が何であるかとの情報は持ち合わせず、あくまでも外界との通信によって《何かである》ことを知りうるのみ。

我々の意識の実質は脳である。つまり我々は既にマトリックスのリアルな住人なのである。遺伝子が作ったマトリックスデいきているカラクリ人形。ああ、哀れなるかな我ら人類よ!